先日、聴覚障害教育を担当されている先生の講演会を聴講させていただきました。
この講演会をきくことで、息子の幼少期のあいだの過ごし方が少し明確になった気がしました。
講演会の内容を紹介しつつ、私が感じたこともあわせて、今回記事にまとめようと思います。
講演会で学んだこと
まず先生が講演会の冒頭で強調されていたことは、コミュニケーションの質が大事であるということでした。
子どもとのコミュニケーションをとる中で、まず愛着が育っていき、それがことばの発達につながり、学習や社会生活に繋がっていくそうです。
こどもとできる一番最初のコミュニケーションは目線を合わせることなので、たくさん目線を合わせてコミュニケーションをとることを楽しんでほしいとおっしゃっていました。
また、こどもと親が共通のものをみたとき、例えば犬がいたときに「ワンワンいるね、かわいいね!」とその場でこどもが感じたであろう気持ちを親が代弁してあげることが愛着となりことばの発達につながっていくとのことでした。
ここ最近10年くらいで先生が感じられている変化として、音声で話すことは話すけれども、コミュニケーションがうまく取れない子が増えてきているとおっしゃっていました。
要するに、聞いたこととは違うことを大量にこたえてくる子が増えてきているとのことでした。
このような子どもが増えてきている背景として、話せて聞こえているように見られた結果、適切な支援を受ける機会が少なくなってしまっているということを指摘されていました。
話しているように見えるため、サポートしなくても大丈夫だろうと思われた結果、コミュニケーション能力が育たず、特に社会人になってから苦労する難聴児が増えているそうです。
補聴器や人工内耳の性能がどんなに良くなったとしても、健聴のこどものきこえとは違うということは常に忘れてはいけないと改めて感じさせられました。
また、仮に子どもの療育がうまくいっているように見えたとしても決して油断をしてはいけないなと思いました。
仮に地域の学校に息子が通うこととなったとして、先生がどこまで息子のことを気にかけてくれているかは保護者としてしっかりと把握しておく必要性を感じました。
話しているようにみえることで、この子は大丈夫と先生から思われてしまい適切な支援が学校の中で受けられていなかったというケースも多いようです。
難聴というのは、自分からその聞こえにくさというものを周りに伝えていかないとなかなか理解されず、見過ごされがちな障害のひとつだと思います。
授業中に先生が言ったこと、休み時間や部活動での友達とのコミュニケーション、聞こえているだろう、大丈夫だろうと思われて、難聴当事者自身も積極的に自分のきこえについて都度説明しなければ、先生の目はどちらかといえば、クラスのなかにいる別の目立つ子のほうにいってしまうことがあるということが想像できました。
学校でのコミュニケーションに支障をきたしているのにも関わらず、話せて聞こえているようにみられてしまった結果適切なサポートを受けることのできなかった子が、社会人になってから苦労するのは目に見えています。
コミュニケーションをとるうえで、単語だけ喋れるというのはあまり意味がなく、その単語からどれだけ多くの関連するワードを連想することができるようになるかということが大切だと先生が強調されていました。
例えば、"消防車"という単語をきいたときに、"乗り物"、"赤"、"火事"など別の単語を連想できるか、またそこから連想された"乗り物"という単語から"救急車"、"トラック"、"バス"などもしくは"道"などとまた別の連想ができるかどうかということです。
小学生の一問一答形式のドリルのようなものだけで、ことばのネットワークをつくっていくのは難しく、やはり実際にいろんなところに連れていっていろんなことを経験させることが大切なようです。
例えば、動物園に実際に行くことで、ゾウが大きいことや、鼻でリンゴをつかむことや、ゾウを育てている飼育員さんがいることなどを目で見て知ることができ、そういった体験があれば、ゾウという単語をきいたときに連想できる単語も増えていきます。
その際、「ゾウさん、大きいね~」「お鼻で上手にリンゴつかんでるね~」と声掛けをして、気持ちの共有をすることも必要です。
ゾウやリンゴなど具体的なことばで考え、具体的場面の現象を理解できることを具体的な思考と言いますが、具体的な思考が積みあがってくることで抽象的な思考というものができるようになってくるそうです。
だいたい健聴のこどもだと抽象的な思考が9歳ごろになるとできるようになってくることが知られており、「もしも~なら」といった仮の話や「AはBより大きく、BはCより小さい」といった記号に置き換えた比較問題がわかるようになってくるそうです。
聴覚支援学校では、「体験」が大事にされており、その体験から得る感情や知識をことばと結びつけていく療育を先生方がしてくださっています。
ただ学校だけでその取り組みが終わる場合、なかなか定着しにくいようで、家庭でも似た経験と学びがある場合、より定着しやすくなるため、家での取り組みも大事になります。
例えば、学校の行事として、どんぐり拾いに行った場合、同じように家の近くの公園にどんぐりを拾いにいくという体験をすると、事前に体験したことが活きて物事を予測しやすくなり、より言葉が定着しやすくなることにつながります。
また、例えば学校でお月見団子を作ったら、家でも作ってみる、もしくは絵日記にしてみる、紙や粘土で再現遊びをしてみるといったこともことばの定着しやすさに影響します。
いろんな体験をすることが、一つのことばから様々なことばを連想する練習になり、それが将来社会に出てコミュニケーションをとるための土台になっていくんだろうと思います。
また、ことばの習得には「偶発的学習」がたくさんあることが大事だということも先生は強調されていました。
健聴のこどもの場合は、家の中でお父さんお母さんが話している言葉の中で、難しいことばもきいていて、その時は理解できなくても後々分かって来るようになることが多いのですが、難聴児の場合は健聴のこどもと比べるとどうしてもそれが難しいみたいです。
こどもに話しかけるときだけ、ゆっくり口元をみせて、手話やジェスチャーをつけて話しかけるということではなくて、たまたま学ぶ、つまり偶発的学習をたくさん作ってあげるために、むしろ親同士の会話こそ、意識的にこどもに伝わるように話すことが必要だとおっしゃっていました。
また、家庭でのコミュニケーションが豊かだと「心の理論」が発達しやすくなるそうです。
心の理論の発達をみる課題は色々あるのですが、先生が有名どころのものとして、サリー・アン課題を例にあげていました。
具体的な検査内容は割愛しますが、第三者の目線でサリーちゃんの気持ちを推し量ることができるかということをみる課題です。
一般的には4才~7才ごろの間に、正しくサリーちゃんの気持ちを推し量ることができるようになるのですが、いわゆる話せて聞こえているようにみえるがゆえ、適切な支援が受けられなかったこどもは7才になってもなかなかこの課題を通過することができないそうです。
地域の小学校に通っている難聴児がお友達や先生などと適切なコミュニケーションが取れているかを測るひとつの指標にサリー・アン課題はなるかもしれません。
また、やはり難聴が周りから気づかれにくくわかりにくい障害であるがゆえに、自らのことばで必要な配慮について語ることで、適切な支援を求めていくスキル、つまりセルフアドボカシーをみにつけることも大切だとおっしゃっていました。
ただ、セルフアドボカシーを実践するためには、自分のことを知り、自分のきこえのことを知る必要があるため、やはり幼児期に質の高いコミュニケーションをとるようにし、自分のことばで自分を語る練習を少しずつしていく必要があると思いました。
聞こえにくさがあると、学校生活の中で消極的になってしまう子も多くいるようで、双方向のコミュニケーションの経験が不足しやすくなるそうです。
地域の小学校の先生なども、どうしても必要なことは要点だけ簡潔に伝えがちになりますが、そうすると難聴児も必要事項しか話さないこどもになってしまう場合もあるそうです。
特に男の子の場合、社会に出て年齢が上がってくると、部下をまとめるスキルや経験が必要になってきますが、地域の学校で複数人での共同作業や集団をまとめる経験が不足しているとなかなか苦労するようです。
聞こえにくさの中、あえてグループの中に入っていったり、それをまとめたりというのは、相当な勇気が必要だと思いますし、苦労もするとは思いますが、小学生のうちに、できれば息子には買ってでもその苦労をしてもらいたいと思いました。
今はとりあえずいろんなところに家族で出かけて、たくさんの思い出を作ろうと思います。
次の休みの日は、またお出かけしようね、はるぴー!